O嬢の物語


非常に衝撃的だった。
所業、つまり辱めや拷問などではなく、心理描写とその結末に。
正確な心理描写。
画一化、単純化された、エロ本のような一面的な解釈ではなく、
多面的に被支配化における女性の不合理な情動が描かれてあった。


とはいっても理解できるかどうかはなはだ別だし
最後の方はしょうもなくなってきた感じもあり。


でもヒヤリとしたものが流れた。
この道は突き詰めれば、人間でさえなくなる引き返せない道であり
しかも刺激を求めれば(その世界風にいえば愛と忠誠を求めれば)
その引き返せない道に進むしかないこと、あえて進んでしまうこと。


冷静に思い返してみると、主人というのはいつも苦労や気を費やしながら
その奴隷を楽しませなければならない代わりに、
その身自体は何の代償も払わないようで、
一方、奴隷は与えられた一定のルールを尊守しようと気を配り
快楽や苦痛を与えられ、自己に陶酔する代わりに
身を傷つけ、またはやつし、もう引き返せない状態になっていく。
主人として行動したときにもう戻れない状況に追い込まれている人はいなかった。
私の周りでもないような気がしている。
(SMの毒に取り付かれる、金がなくなっていく、ということはあるが
 その性向を持っている時点で、程度こそ違え一生捕らえられるのだから
 同じことではないだろうか)


全てを貪った後に気付けば全てを失っていたO嬢には
その道しか残されていなかったのだろうか。
どうだろう。


私は貪りつくすことはないだろう。
相応の程度にまできたとき、気違いじみた己の様相に陶酔し、
愛を快楽やエゴと見分けられなくなった状態の主人は
私は何だか愚かな、同情すべき存在に見えて
理性に引き戻されてしまうからだ。


性向と狂気は同じか?
いかなる状況であれ、もしその人たちが現実世界と交流を持たなければ
生きていけないとき、狂気の中に現実への糸口は残されているはずである。
その選択肢を選ぶか、選ばないか。
(選べない、という状況下であれ、選択すること自体は本人の自由である)
引き返す道は残っていたはずである。
何度も選択の余地を与えられていたはずである。
しかしそれでもその世界を愛し続け、帰ることを希求したとき
段階的に堕ち、最後は引き返す階段がないことを忘れて
降り続ける。
性向と狂気は同じではない。
性向は単なるきっかけにすぎない。


何か教訓めいたものを残してくれたとは思わない。
ある部分では被支配化におかれ、
命令されることや強制されることに喜びを感じるものたちの
共通する心理を示しているし、
またOはその者たちが歩む、その中でも過激で救いようのない一例を示したにすぎない。
(本来、欲望や本能の領域に、役割を担うもの以外の視線など必要ないのだ)