詭弁か理論か


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「この芋洗いが!」より。(何故イモ洗い?


詭弁と理論の差は聴衆の理解による。
それが如何に正論であったとしても
説得力のかけるものや難解な語句をふんだんに使用した装飾品は
「もっともらしい」「何となく難しいことをいっている」
で片付けられてしまう。
哲学者が難解な言葉を使いすぎると非難されるのも良くわかる。
その思想自体が難しくとも、本当に理解しているならば
簡潔な説明も出来るはずである。
必要最低限まで肉を削ったとしても、髄が残っていれば聞くことが出来る。
(それが多少曖昧で不正確であったとしても)


(数学に限らず、本当に頭のいい人はいかなるレベルのヒトにも
解説することが出来る。
そのレベルに適した肉のそぎ落とし方を知っている。
訓練は必要であるが、それでも理解をしていない人間は
肉をそぎ落とすどころか説明するための文章自体が組み立てられない。
単純な疑問一言で崩壊してしまう。)


悲観を以って諦めるようなつもりは全くないが
人の価値観や思想を、他の誰かが変えることなんてそう簡単には出来ない。
私はひょっとしたら他人が意図して帰るのは不可能に近いのではとさえ思っている。
だから二人の人間が何かに関して議論したとき、
それに絶対的な答えがないのであれば
その議論に勝った、つまり聴衆を納得させたり反論が出来ない状況に追い込んだり
した方が理論になるのではないだろうか。


「それは真実ではない!」という反論は承知である。
真実が正論として、或いは理論として容易に納得させられるのであれば
誰かが理不尽な経験をするはずがないだろう。


自分の理論が正論であり、相手の理論が詭弁だと思ったら
そしてそれを覆そうと思ったら戦うしかない。
そしてマジョリティを自分の理論に引き込むしかない。
そこまでして戦うほどの価値があるのかどうかは自分で判断したらいい。